
「坐禅」という言葉は知っている。でも、そもそも何なのか、よく説明できない。
そんな方のために、この記事では坐禅の意味・歴史・効果・宗派の違いを一通り整理します。難しい話は後回しにして、まず「坐禅とはどういうものか」の輪郭をつかんでいただければ十分です。
なお、「座禅」と書かれることもありますが、各宗派の公式表記にならいこのサイトでは「坐禅」に統一しています。
- 坐禅の意味と、仏教における位置づけ
- お釈迦様から現代までの歴史の流れ
- 曹洞宗と臨済宗、坐禅の作法はどう違うか
- 坐禅で感じられる変化と効果
- 坐禅を始める3つの入り口
坐禅とは?「ただ坐ること」の意味
辞書的に言うと、坐禅とは禅宗における基本的な修行法で、正しい姿勢で坐り、精神を統一することです。
「禅」という字は、サンスクリット語の「ディヤーナ(dhyāna)」を漢字に写したもので、「静慮」つまり心を静めて考えるという意味があります。そこに「坐」(座る動作)を加えて、「坐って行う禅」が坐禅です。
ここで少し面白い逆説があります。
曹洞宗をひらいた道元禅師は、ただひたすら坐ることを「只管打坐(しかんたざ)」と呼びました。
「ただ坐る」というのは言葉にすると簡単そうですが、その意味するところは「何かを得るために坐るのではなく、坐ること自体が修行であり、目的である」ということです。
ストレスを解消しようとか、集中力を上げようとか、そういう目的を持って坐り始めた瞬間、それはもう只管打坐ではない、という考え方です。何かを求めないからこそ、坐禅なのだ、と。
最初にこれを聞いたとき、わたしは少し面食らいました。「効果もないのに何のためにやるんだろう」と。でも、坐り続けるうちに少しずつわかってきたのは、求めないから変わる、という逆説が、坐禅の一番の核心なのかもしれないということです。
坐禅の「効果」については後のセクションで触れますが、まずはその根っこにある「ただ坐る」という思想から入ることが、坐禅を理解する近道だと思っています。
坐禅の歴史・お釈迦様から日本へ
始まりは、インド菩提樹の下で
坐禅の起源は、仏教の開祖であるお釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)の修行にさかのぼります。
お釈迦様は紀元前5〜6世紀ごろのインドに生まれ、王族の生まれながら人の苦しみや死の問題に深く悩み、出家の道を選びます。苦行を重ねた末に菩提樹の下で坐禅をし、ついに悟りを開いたと伝えられています。このとき、お釈迦様は屋根のない場所、大地に直接坐っていました。
「坐禅」と書いて「座禅」と書かないのも、ここに由来するという説があります。「座」の字には「广(まだれ)」がついていて屋根を意味しますが、お釈迦様は屋根のないところで坐禅をされた。だから「坐禅」が正しい、という考え方です。
中国へ。達磨大師と禅宗の成立
仏教はインドから中国へと伝わりますが、坐禅を実践の中心に据えた禅宗というかたちを整えたのは、菩提達磨(ぼだいだるま)、通称・達磨大師です。
6世紀初頭、南インド出身とされる達磨大師は中国に渡り、洛陽郊外の少林寺にこもって壁に向かって坐禅を続けたと伝えられています。「面壁九年」という言葉はここから来ています。伝説的な要素の多い人物ではありますが、「ひたすら坐ること」の象徴として、禅の世界では今も大きな存在です。七転び八起きのダルマ人形も、この達磨大師がモデルです。
達磨大師の教えは受け継がれ、中国で臨済宗・曹洞宗などの禅宗の各宗派が生まれていきます。
日本へ。栄西と道元、2つのルート

禅宗が日本に伝わったのは鎌倉時代のことで、ほぼ同じ時代に活躍した2人の僧侶が、それぞれ別のルートで日本に持ち帰りました。
ひとりは栄西(えいさい、1141〜1215年)。2度にわたって宋(中国)に渡り、1191年の帰国時に臨済宗の禅を日本に伝えます。栄西が開いた建仁寺(京都)は、現在も臨済宗の中心的な寺院の一つです。なお、栄西は茶の種を中国から持ち帰ったことでも知られ、「茶祖」とも呼ばれます。
もうひとりは道元(どうげん、1200〜1253年)。1223年に宋に渡り、天童山景徳寺で如浄(にょじょう)禅師に師事して曹洞禅を学びました。1227年に帰国した道元はまず『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著して坐禅の作法を体系化し、のちに越前(現在の福井県)に永平寺を創建(1244年)します。道元が残した『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は、現在も曹洞宗の根本聖典として受け継がれています。
この2人が日本に持ち帰ったものが、今日の坐禅文化の礎になっています。
現代の坐禅。なぜ今また注目されるのか
坐禅はもともと僧侶の修行法でしたが、現代では一般の人にも広く開かれたものになってきています。
背景のひとつとして、2000年代以降に欧米でマインドフルネスが広まり、「禅の実践」への関心が世界的に高まったことがあります。スティーブ・ジョブズが禅に深く影響を受けていたことは有名な話で、Google・Appleなどのグローバル企業がマインドフルネス瞑想を取り入れていることでも知られています。私もこのあたりの流行りの本は読んだことがあります。
日本でも、各地のお寺が一般向けに坐禅会を開くようになり、体験しやすくなりました。仏教の修行として、あるいは「自分と向き合う時間」として、以前より身近な実践になっています。
曹洞宗と臨済宗・坐禅の作法はどう違う?
日本の禅宗の代表的な2つの宗派、曹洞宗と臨済宗は、坐禅の考え方や作法にいくつかの違いがあります。
| 曹洞宗 | 臨済宗 | |
|---|---|---|
| 開祖(日本) | 道元 | 栄西 |
| 坐禅の向き | 壁に向かって坐る(面壁) | 壁を背に、中央に向かって坐る |
| 坐禅の考え方 | 只管打坐(ただ坐ること) | 公案(禅問答)を解くための坐禅 |
| 代表的な本山 | 永平寺(福井)・總持寺(横浜) | 妙心寺・建仁寺・円覚寺・建長寺など |
大きな違いは坐禅の目的です。曹洞宗は「ただ坐ること自体」に意味があるとし、臨済宗は公案(こうあん)と呼ばれる禅問答を通じて悟りを目指す実践を重視します。たとえば「なぜ手を打てば音が出るのに、片手では音が出ないのか」というような問いに向き合う修行法が公案です。
一般向けの坐禅体験会では、この違いはあまり意識しなくて大丈夫です。ただ、「面壁(壁向き)か否か」に関しては見た目にも違いがわかるので、参加するお寺の宗派を確認しておくと面白いかもしれません。宗派の違いについてはこちらの記事でも詳しく解説しています。
坐禅の効果・求めないから得られる変化
「効果を求めて坐るのが坐禅ではない」と前述しましたが、坐ることで結果として感じられる変化は確かにあります。
わたし自身がたまに坐るなかで実感するのは、呼吸がゆっくりになること、頭の中のノイズが少し静かになること、小さなことで苛立ちにくくなることあたりです。私の場合は、とくに子供に対して。これは継続的な修行の話ではなく、5分10分坐るだけでも感じられることがあります。
科学的には、東邦大学名誉教授の有田秀穂医師の研究(2012年)で、坐禅の呼吸法(丹田呼吸法)によってセロトニン濃度が増加し、前頭前野の血流に変化が生じることが報告されています。ただし、「坐禅をすれば〇〇が治る」と断言できるレベルの研究はまだ多くなく、あくまで「そういう傾向が観察されている」という段階です。
効果を期待しすぎないこと。それ自体が坐禅の精神に近いのかもしれません。坐禅の効果については、こちらの記事でより詳しく書いています。
坐禅と瞑想・マインドフルネスはどう違う?
坐禅と混同されやすいのがマインドフルネス瞑想です。どちらも静かに坐って呼吸に集中するという形は似ていますが、最大の違いは目的を持つかどうかです。
マインドフルネスはストレス軽減・集中力向上など具体的な効果を目指す実践。
坐禅(特に只管打坐の考え方)は何かを得るために坐るのではなく、坐ること自体が目的です。
また、呼吸の扱い方も異なり、坐禅が一点集中型なのに対して、マインドフルネスは「観察する」という意識が強くなります。
詳しくはこちらで解説しています。
→ 坐禅・瞑想・マインドフルネスはどう違う?目的・作法・感覚を比較
坐禅を始めるには?3つの入り口
「坐禅に少し興味が出てきた」という方への、具体的な入り口を3つご紹介します。
① まず家で5分試してみる
道具は坐布団(できれば坐蒲)と静かな場所があれば十分です。足を組んで、手を法界定印に結んで、呼吸を数えるだけ。詳しいやり方はこちらをどうぞ。
→ 【初心者向け】はじめての坐禅|10分から始める実践ガイド
② お寺の坐禅会に参加する
全国のお寺で一般向けの坐禅会が開かれています。初心者歓迎のプランがほとんどで、作法の説明もあります。お寺の空気の中で坐る体験は、家とはまったく違う感覚があります。
③ 道具を揃える
自宅で続けるなら、坐蒲(ざふ)がひとつあると姿勢が安定して続けやすくなります。わたし自身、仕事机の横にひとつ置いているだけで、気が向いたときに坐れる環境になっています。
まとめ
坐禅とは何か、改めて整理します。
- 坐禅とは禅宗の修行法で、姿勢を正して坐り精神を統一すること
- 「ただ坐ること自体が目的」という只管打坐の考え方が根本にある
- お釈迦様の修行に始まり、達磨大師が中国に禅宗として伝え、栄西・道元が日本に持ち帰った
- 曹洞宗(只管打坐・面壁)と臨済宗(公案・中央向き)で作法の違いがある
- 効果は「求めないから得られる変化」として体感する人が多い
- 始め方は「家で5分」「お寺の坐禅会」「道具を揃える」の3つから
「坐禅をやってみたい」と少しでも思っていただけたなら、まずは5分だけ坐ってみてください。足が痛くても、雑念が止まらなくても、それが坐禅のはじまりです。